akaibara's diary

華道教授で サッカー大好き お母さんです

関宿

歌川広重作 【関・本陣早立】
江戸日本橋より47番目の宿場です。
東海道五十三次制覇も後僅かになりました。


2005年4月6日の【シティライフ 夜景五十三次】をヒントに旅(仮想)をしてきました。
毎週水曜日【一宿】書くと決めていましたので楽しみでした。
ブログを書くことで、宿場町を訪ね歩き、旅人になった気分にさえなれました。


古い宿場町を訪ねると、そこには暮らしの匂いがあり、人々が営々として築いてきた歴史や伝統に触れることができます。
また、かつての面影のない場所でも、広重の浮世絵に描かれた風景と今を比べる楽しみがあります。


広重の版画「保永堂東海道五十三次」の浮世絵を鑑賞しながら、昭和・平成の東海道の有様とオーバーラップさせて見るのも楽しみでした。


【歌川広重ってどんな人?】

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広重は寛政九年(1797年)、江戸八代洲河岸(八重洲河岸)の火消同心の安藤家に生まれます。

幼名は徳太郎、大きくなると重右衛門と名乗っていました。

13歳で両親を失い、初代歌川豊国に弟子入りを申し込んだが門弟が多くかないませんでした。
そこで15歳で浮世絵師歌川豊広に入門。

翌年、師豊広より広の一字を受け広重と名乗りました。(安藤広重と紹介されていることもあるりましすが、画人としては歌川広重


天保二年、葛飾北斎(72才)が「富嶽三十六景」を発刊した時と同じ頃
36歳の秋に幕府の御馬献上の一行に参加して上洛、東海道を往復する際、印象を写生しました。

それが、保永堂版「東海道五十三次」五十五枚です。

このシリーズの爆発的な売れ行きによって、広重は浮世絵界に不動の地位を手に入れることとなりました。

「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」、溪斎英泉との共著「木曽海道六十九次」を次々と発表。

晩年60才で制作を開始した「名所江戸百景」を完成させた。

しかし、安政5年、当時、大流行のコレラで62才で永眠したと伝えられています。
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関宿
古代から東海道、伊勢別街道、大和街道の分岐した交通の要衝であり、古代3関の一つ「鈴鹿の関」がおかれていた所です。
関の名もこの鈴鹿の関に由来しています。


旧東海道で唯一歴史的な町並みが残る宿として
昭和59年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。
現在でも、宿場町の景観が1.8kに渡り残され銀行も町並にあわせて建てられ、電柱も地中に埋められ、自動販売機も木目調のデザインに変えられています。
【関宿まちなみ館】

【歌川広重東海道五十三次版画と赤い薔薇日記】

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